雨上がりの夜が好き

気楽にいこう

未だ、青年

 ブログを数ヶ月更新していなかった。昨日、タイトルだけがスパッと思いついたので書き始める。(しかし、タイトル以外なにも思い付いておらず、ここからなにを書いたらいいのかがわからない)

 

 青年の次は壮年というらしい。壮年とは精神的に成熟し働き盛りの時期を指す。明確に定義されているわけではないが少年期と、そこで得てしまい青年期まで引き摺ったコンプレックスに区切りをつけ、社会に参画している人 みたいなニュアンスがある気がする。

 気付いたが、壮年期にある年齢の男性が、自分が未だ青年であることにコンプレックスを感じていることはけっこう多い。多いというか、私が見ているコンテンツにはそういう人が作り手になっているケースが多い。

 代表例は天竜川ナコン。ナコンはかなり率直にこの問題を考え続けているように見える。ナコンが動画で度々、同級生は家を買ったり家族を持ったりしているが、自分はいずれも手にしておらず、何者かになりたくて1人で動画をネットにアップし続けている というようなことを言うのは、彼もまた大人になれないことにコンプレックスを抱えているからに見える。ナコンの動画はだからこそ凄みがあって、彼の葛藤は切実に私の胸に届く。自分で設定したゲームを自分で攻略するという、本来の意味でのルサンチマンの超克を地で行っていて、その姿に私は本当に感動する。最新の動画では、「何者かになりたい」とは「普通になりたい」ということなんだ、と気付いてコンプレックスの呪縛を解いた。

 さて問題は、私である。私は一体、人生において何をしたいのだろうか。私にはどこかに行きたいとか、何か具体的なものが欲しいという物質的な欲求に乏しい。そうであれば、仕事をすることで社会の中で認められたいとか、パートナーと穏やかな生活を送りたいといった精神的な目標を持っているかと言われると難しい。確かに私はこれらのことを望んでいなくはないだろうが、それは内在的なものというよりも、なにか義務感のようなものによって外在的に沸いたもののような気がする。私自身が内在的に持っている「やりたいこと」とはどれなのだろうか、あるいはなんなのだろうか。私はいったいどこに行きたいのだろうか。それがわからない。わからなくて、日々どこへ向かえばいいのかわからないでいる。私は未だ青年で、まだ壮年になれそうもない。

 

 …とここまで書いていて、書き足す必要があると思った。
 そもそも、やりたいことや達成したい状態が内在的か外在的かという区別にはどこまで意味があるのだろうか。私は社会に生きているのであって、自分と自分以外の境界というのは、私が持っているイメージよりもきっとずっと曖昧だ。細かい趣味の一つに至るまで今までいた環境・今いる環境の影響を受けているのであって、大きな人生の指針となると尚更なのではないか。この社会で生きていくのだと決めている以上はそこから逃れられないし、むしろ逃れようとしてもどこにも辿り着けず置いてけぼりになるのではないか。もちろん、個々人が受け容れる「やりたいこと」と社会的に適切とされるそれが完全に一致するとは限らないし、そうしなければならないということではない。けれど、自分の「やりたいこと」を過度に懐疑することはきっと、私をどんどんと他の人たちから遠ざけていく。だから私のやりたいことは、「誰かと穏やかに暮らしたい」ということでいいのかもしれない。そして思考の上で納得したこの結論を腹落ちさせるのが、青年から壮年になることなのかもしれない。

音楽に引きこもっていた(7/14)

 音楽に引きこもっていた。思考をする出発点がいつも音楽ありきで、考えたいことを考えるために音楽を聴いた。また、辛い時も音楽を聴いた。辛い時は自分を落ち着かせる言葉が欲しくて音楽を聴いた。なにかを考えたい時と辛い時、つまり生活のほとんどで音楽を聴いていて、それもずっと同じアーティストを聴いていた。まさしく「引きこもっている」と言うべき状態で、それ以外のなんらかと対話をしたくなかった、正確にはできない状態だった。唯一対話をしたいと思い、受け入れていたのはそう、amazarashiの音楽だ。

 amazarashi及びフロントマンである秋田ひろむさんの言葉と音が、この頃の私の思考の出発点であり、苦悩を終着させるべきところだった。それはかなり自己完結的なのだが少しだけ外に開かれていて、なぜなら秋田さんと私は違う人間だからだ。人格として異なる人格を生きているというだけでなく、生まれも育ちも違い、見てきたものも違う。だからその意味で完全に自分に閉じてはないが、しかし私の中で完結する、ほぼ自己完結的なものである。

 恋や愛について考えたければラブソング、アノミーを聴き、いったい感情とはなんなのか、理性と感情の関係とは?を考えたければアンチノミーや命にふさわしいを聴き、生きている意味や自分にとっての自分の価値を考えたければジュブナイルや空っぽの空に潰されるを聴いた。励まして欲しい時はスターライトを聴いたし、深い絶望に打ち勝てなさそうな時はロストボーイズや1.0を聴いた。

 このように、私にとっては秋田ひろむさんの言葉、amazarashiの音は切実に必要なもので、もはやなくてはならないものになりつつある。


 話が変わる。最果タヒさんの『十代に共感する奴はみんな嘘つき』に、あるバンドの音楽で「救われた」「あの音楽があるから生きていける」ということをいう人が羨ましい、私はその音楽がなくても生きていけるし救われてないけど普通に好き、みたいな一節があった。(うろ覚えです)

 私はこれに、けっこうわかると思う。まず、このセンテンスが若干の腹黒さと、それよりも強い憧れの気持ちで書かれているとここでは仮定する。
 その上で、だ。何かのコンテンツを「救い」とか、「それがあるから生きていける」という域に達するほど好きだと言えるのはある種の信仰である。それがあることに人生の意味を見出せているような印象を受け、羨ましいというのはある。あらゆるコンテンツにはいくつかの側面があり、その中でも自分に都合のいい側面を全面で受け取ることができているように見えること。それから、自分の力で到達したのかもしれない、コンテンツは最後の一歩を与えたに過ぎないかもしれない人生哲学の教訓をコンテンツ由来のものであるように考えられている点。あとは、そのコンテンツでなくてもよく、なかったらなかったで他のコンテンツに「救われ」ていたかもしれないという必然性(偶然性)を疑っていない点。こんな感じのことが、漠然と「羨ましい」と感じる。(私の言語化能力ではこの辺りが限界です)

 

 これらを全て踏まえた上で言うが、私はamazarashiの音楽に「救われた」。少なくともこの半年間の闘いにおいて、amazarashiの音楽がなければ乗り切ることはできなかった。また、そもそもamazarashiや秋田さんの歌を指針としなければ生きる意味の消失に陥っていた可能性もある。

 これは好き/嫌いをじゃっかん超越した信仰だという自覚があるし、私自身がamazarashiの音や言葉から得たものは、私自身の力によって得られたものかもしれないというのもわかる。また、様相的な必然性がないということもわかる。
それでも、確かに「救われた」のだ。

 私自身、こんなに大量の留保をつけなければ「救われた」という言葉ひとつ使うことができない面倒な人間であり、けれどだからこそamazarashiの音楽が好きなのだろうということを述べて、この記事を閉じる。

読んでいただきありがとうございました。

 

books.bunshun.jp

戦いの終わり

 先日、半年間取り組んでいたことが終わった。そのプロジェクトはいくつかの技能が必要とされ、それらを同時並行で練習・実践・修正していく必要があった。マルチタスクを苦手とし、一点集中が得意な私にとってはかなり苦痛だった。加えて多角的な能力を見られていて、修正のプロセスでなにを修正すればいいのかが不透明だったので、苦戦を強いられた。

 しかし終わった。永遠に続くかに思われた戦いは決着が着いた。最悪7月ごろまでかかることを想定していたが、しかし常識の範囲内の長さで決着がついた。結果はまずまず。振り返れば反省すべきことや改善すべきだったことはいくらでも見つかるが、それは後の祭りというか岡目八目というか、その時の自分にはわからなかったことなので仕方ない。

 結果に対しては、人より遅く始めた中、限られた時間でよくやった方だろうという自分と、これまでの積み重ねを怠惰で台無しにしやがって、という自分がいる。あまりにも結果が出なくて一週間放棄してひたすらに映画を観たこともあれば、カフェに篭って小説をひたすら読んだこともあった。また、毎日2時間くらい何もせずamazarashiをひたすら流して泣く時間もあった。振り返るとだいぶサボっていて、プロジェクトに対して「全力」とは到底言い難い向き合い方しかできていなかった。そのとき主観的に物凄く辛かった自分と、客観的に見ればサボっているだけの自分、どちらが本当の姿なのだろうか。もう少し大きな話として、誰かに肯定されれば本当か疑い、否定されれば全て受け止めて自分を痛めつける私は、いつか自分を中立的に捉えることができるのだろうか。

 その中で出会った映画には、凄く沁みるものもあった。『イエスタデイ』では、自分への愛を本当に受け止めるためには虚飾を脱ぎ捨てる必要があることが説かれていた。『ニュー・シネマパラダイス』では、本当に相手のことを想った愛が時には相手を突き放すように見えること、けれどそれが相手にきちんと届くことがあるということが描かれていて、誰かの幸せをこんなに身を投げ出して願うことが自分にはできるだろうか、という問いを突きつけられた。生きていく上で考えるべきこと、知るべきことはあまりに多く、それは時が来なければきっと理解できない。だから今日も明日も生きていかなければならない。

 今回は以上!久しぶりの更新でした。いつも読んで頂き、ありがとうございます。

テーマソングに、『季節は次々死んでいく』のURLを添付します。よければぜひ。

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『3月のライオン』(4/19)

 この作品に対して僕がどれだけ思い入れを持っているのかということをほかの人に伝えることはほとんど不可能に近い。それどころか、僕は自分自身でも、『3月のライオン』をどれだけ好きなのかということを説明することができない。とにかく何回も何回も読み直して、その度に新しい発見と心地よい痛み、そして桐山くんやひなちゃんやあかりさんが心に負っているものに思いを馳せ、それでも彼らが作品の中で救われてくれることに救われるということを繰り返している。しばしば僕の読書体験において起こることだが、再読を繰り返した結果、他の人と受け取っているものがあまりにも乖離し共感性を失うということが起きるのだが、きっとこのエントリーもそういう内容になるだろう。温かい目で見ていただければ幸いである。

 

 『3月のライオン』は羽海野チカ先生が描いている漫画で、中学生でプロ棋士になった桐山零くんが、失いその後与えられなかった他人との繋がりを取り戻し、そして自分で守っていく漫画である。
彼は幼くして家族を失いその後プロ棋士の家庭に引き取られ、将棋を頑張ったのだが逆に孤立し、中学生でプロ棋士となり家を出る。

 この物語は基本的に再生の物語で、家族・友達・社会的立場をなにも持っていない桐山くんがそれらを手に入れる構成になっている。
 それを象徴するように第一話は進行する。朝、起きた桐山くんの頭の中で義姉に自分がなにも持っていないことを指摘される記憶が再生される。その日桐山くんはプロ棋士の義父との対局なのだが、義父を負かしてしまう。将棋盤を挟んで座る2人の間で空虚に響く義父の心配の言葉と、冒頭から全く変わらない桐山くんの青白い顔が、2人の溝を際立たせている。
 そして、対局が終わった桐山くんに1件のメールが届く。それは本作のヒロイン・ひなちゃんからの明るくて楽しげなメールで、ここで初めて桐山くんの表情が変わる。ここで示唆されるように、ひなちゃん及び川本家は物語の中で桐山くんにとって心の支えとなる。最初は申し訳ないけれど行くと心を落ち着けることができる場所としてあり、後には自分を賭けて守りたい場所になっていく。

 

 僕は、自分の過去の記述を恥じなければならない。僕は過去にブログで、「桐山くんのようになりたい」と書いたことがあったが、これはとんでもない思い上がりと誤読に基づいていたと言わざるを得ない。それを書いた時には、桐山くんがどれだけの痛みを背負い、どれだけの覚悟を持って棋界で生き残り、そして川本家を守ろうとしていたのか全くわかっていなかったのだと思う。彼は本当に必死で積めるものを全て積んで自分の居場所を確保し、そして光を見つけ、それを本当に必死で自分を賭けて守った。僕はそんな風に必死で何かを守ったことがあったかと問われれば、答えるのに躊躇してしまう。軽々しく桐山くんに憧れるのはとんでもない傲慢としか言いようがない。

 しかし、僕にとって桐山くんの生き方がとても眩しいのもまた確かである。本作に込められたメッセージは、「自分のために身につけた強さは、いつか大切なものを守る力になる」というものだと思う。桐山くんが孤独の中で自分を守るために必死に身につけた将棋と生活基盤は、後にひなちゃんやあかりさんを守る力となっている。これは林田先生や島田さんとのつながりについても言えると思う。彼らは桐山くんを、彼が自分を孤独だと思い込んでいた時から見守っていたし、桐山くんが彼らの助けを求めた時にはそれに応じてくれている。それは、桐山くんが真面目にコツコツとやってきたからだし、それも紛れもなく桐山くんの持っていた力なのである。

 話が逸れたが、自分を守るために身につけた強さを誰かのために役立てる時が来たらいいと思う。きっとその時、僕は初めて本当の意味で救われることになるだろうし、それが自分が人生を生きる意味になるんじゃないかと思う。

 

今回は以上! 長い記事になりました。お読みいただきありがとうございます。
以下、ヤングアニマル公式のリンクです。ここから第一話が読めるはずです。

younganimal.com

『違国日記』(2/24)

 漫画『違国日記』を読んだ。きっかけは乗代さんの新作『二十四五』で言及されていたから(冒頭で。他にも、『二十四五』には登場人物がJupiterを歌おうとするシーンがある)。『二十四五』は語り手が強く影響を受けた叔母を追想する素晴らしい小説だったが、それはまたの機会に。

 『違国日記』を一単語で表すとすると「慈愛」だと思う。私たちひとりひとりには自分が何に傷ついたか・何を言われたくないか・自分のことをどれだけ誰に言うかを決めることができるべきである。そのことを槙生さんは朝さんに教えまた守ろうとし、時に破りながらも共同生活を築いていく。はじめこそ槙生さんは道徳的態度として(あるべき大人の態度として)朝さんにそのように接し、また距離をとっていたが、それは次第に愛へ変わっていく。義務としての心配が本心になっていく。


 個人的によい漫画だなと1番思った点は、8巻でカミングアウトについて扱っていたところ。自分のことは話したくなければ話さなくていいし、相手にも強要しないのが誠実さだ、ということがこの漫画ではずっと言われていたが、8巻ではもし言うとしたらどのように言うのか?という部分が扱われている。誰かと親しくなった時に、自分のことを言わない(自己開示をしないでおく)態度を取ることについての葛藤を描いてくれるのが嬉しかった。そういう時に、一方で話さないことは相手にとって不誠実なのではないかと思い、他方で相手にとっては重いんじゃないか、嫌われるのではないか、或いはズレた共感や理解を示されるのでは、とかを考えてしまうのは当然のことである。だから、そこで「話さなくてもいい」に留まらず、「もし話すとしたらどうする?」というのを描いてくれたのが嬉しかったし、すっきりもした。

 

 補遺。『違国日記』は登場人物の置かれている状況やテーマが『3月のライオン』と少し重なる部分があり、『3月のライオン』を何度も読み返している自分はどうしても比較してしまうのですが、上ではその要素をできる限り排除して纏めてみました。『3月のライオン』についてはまた別の記事で書くと思います。

今回は以上! お読みいただきありがとうございました。

冒頭で言及した乗代さんの『二十四五』はこちら。

bookclub.kodansha.co.jp
『違国日記』はこちら。

www.shodensha.co.jp