雨上がりの夜が好き

本の感想多めです

大豆田とわ子と三人の元夫

   『大豆田とわ子と三人の元夫』を観ている。たぶん、5回目。このドラマは何度観ても良い。言葉の一つ一つ、出来事の一つ一つが染みてきて、コメディパートは面白くて。バックグラウンドやパーソナリティそのものというより、些細な台詞、話し方、そして行動や歩き方で人物を造形しているので、皆とても活き活きしている。だから彼らがやらかしたり、時に上手くいったりすると、面白いなあと思いつつもきちんと切実に響いてくる。田中さんも佐藤さんも中村さんも、勿論大豆田とわ子も、愛すべき存在として私の近くにいる。

 

 毎回これは染みる、という台詞が変わる。今回は4話のかごめの台詞が響いた。以下は拡大解釈で、渡来かごめの本来の意図とはズレます。

 私たちは性愛対象のセクシュアリティの誰かを好きだと思う時、つい恋愛に結びつけがちだ。それは多分、友達より恋人の方が強い絆で繋がっていて、濃密な時間を過ごすことができると思っているから。

 けれどそれは本当だろうか。多くの時間を共有したり、手を繋いだり、触れ合ったりすることは、「濃密な時間を過ごす」ということなのだろうか。絶対にそうだとは限らないと思う。友達との時間と種類が違うというだけ。友達だって関係性の一つの形で、いい友達とはよい(濃密な?)時間を過ごせる。

 話が飛躍します。だから、好きだなと思った時、告白するか、思いを胸に秘めるかの二択というのは、少し違う。その人との最適な関係性の形というのがあるはずで、それは例えば、あなたを信頼しています、大切にしていますということを伝え続けて、強い絆を産み出す形かもしれない。

 話が長くなったけど、思ったことは二つあります。
一つ目は、恋愛感情がいつでも最も秘められたもので、最も大切にすべきものとは限らないということ。
二つ目は、恋人になることが性愛対象のセクシュアリティの人との関係のゴールではないということ。それは「恋愛感情」を抱いていてすら、例外ではないということ。

 恋人や友達という括りがそもそも無理があって、一人一人異なる関係性の形が、誰との間にでも存在している。それを大切にして生きていきたい。